未熟なものを世に出すことの功罪と期待値コントロール
あらゆる人が表現者となりうるいま、とにかく行動しよう、失敗を重ねて成長しようといろんなところで耳にします。
このブログでも度々、情報発信のメリットについて触れてきました。
なにもテキストコンテンツに限らず、あらゆるコンテンツやサービス、プロダクトなどをリリースすることへのハードルがますます下がってきています。
かつては大量生産・大量消費に耐えうるモノにしか市場が開かれていなかったため、少ないつながりの中で手売りする程度ならともかく、だれもがアクセスできるようにするにはそれなりのチェック機能がありました。
それが取り払われたいま、素人が思いつきでつくった、十分な検証が行われていないプロダクトと、大手企業が数年間・数百人・数億円のリソースを投じて開発したプロダクトが同時に市場を流通します。
もちろん同じような売り場に並ぶことはないでしょう。
ただ、たとえばインターネットで商品やサービスの情報を得ようとすると、ブランディング次第では前者の情報流通量が後者を上回る可能性がある。
大手企業のCMより個人の口コミがバズることが訴求力につながる場合もある。
単独のサービスやプロダクトのウェブサイトであれば、動きの遅い大手企業よりもトレンドをキャッチした高いクオリティの絵作りを実現することも可能でしょう。
こうした世の中の動きは、個人の可能性が開かれたチャンスととらえることもできる一方で、将来的なリスクにつながる危険性も孕んでいます。
今回は発信者・表現者の側から、そのリスクとどう向き合うかについてまとめてみます。
未熟なものを世に出すことの危険性とは
先日、とある施設を訪れました。
ブランディングが非常に成功していて、代表の方は業界の新星として注目され、数多くのファンを抱えるインフルエンサーです。
僕自身もその方の発するメッセージや、新しい価値観を生み出していこうとする姿勢には共感するところもあり、一度訪れてみたいと思っていた施設でした。
結果、まあ記事のタイトルからご想像の通り、残念だな、未熟だなと感じるクオリティでした。
ただ、サービスと価格設定のバランス自体はぼったくりという印象はなく、なにも知らずに訪れていたらそれなりに満足できていたと思います。
事前に期待していたイメージとのギャップが大きくて、そのことがサービスに対する信頼に影響してしまった、もしかしたら同じ方が手掛ける別施設も残念なものなのではないかと疑ってしまったわけです。
ただ僕が残念に感じてしまった施設自体は、これからサービスが成長していくためには必要な経験なのだと思います。
見かけ上ブランディングが優れている、ということは、サービスの提供者からすると、その施設のうまくいっている点と、反対にうまくいっていない点に対して強く自覚しているはず。
失敗が次につながることは間違いないと思いますし、確実にレベルアップしていくでしょう。
すべてを完璧な状態でリリースできればそれに越したことはありませんが、これだけ変化のスピードが早まっている時代には、ある程度傷つきながらも進んでいくタフさが求められると思います。
問題なのは、良い面だけを切り取ったブランディングを是としていること、そしてそれが生むギャップが、現在運営されているほかのサービスや今後手掛けるであろうサービスに対する不信感につながってしまうことです。
未熟さと期待値のコントロール
ここでイチ消費者として、その施設をこき下ろしたいわけではありません。
自分自身の表現活動に必ずついて回るその未熟さと、どう向き合っていけばよいかを考えてみたいのです。
僕自身は、会社員として多数の決裁者やコンテンツに関わる関係者の目が通った、ある意味失敗の許されないコンテンツと、個人でのnoteやウェブ連載での執筆といった、クオリティレベルを自由に設定できるコンテンツの双方に関わっています。
後者の方が自分の興味関心をそのままかたちにし、それを読んだ人の反応もダイレクトに見て取れるという点で学びが大きく、今後も継続していきたいと思っています。
一方で前述したような、未熟なものを出すリスクを抱えていることも事実です。
ではクオリティを担保するためのチェック機関を設けるべきかどうか。
当然あり得る選択肢だとは思いますが、コストもかかりますし、本来追求したい部分とは異なる場所にリソースを割くストレスがあるだろうと思いやっていません。
ただひとつ、心がけているのは実感と大きくズレる期待値のコントロールは避けるということです。
ネット記事での過剰な期待値コントロールの例としては、煽りタイトルや高額有料設定にしておいて、中身が伴っていないものなどがありますね。
僕自身がブランディングが不得手で、思ったことを思ったように書いてしまうため、期待値コントロールもクソもないのですが。
ただ記事を書いてSNSでシェアする場合に、「これは良いモン書けたなー」という時と、「完全燃焼とは言い難いな」という時では記事に付けるコメントの熱量が大分異なっていると思います。
このブログに限ってはほぼノーコメントでそのままTwitterに投稿していますしね。
もうひとつ、本当はやるべきだろうけれどできていないのが、好意的な反応だけでなく、批判的なコメントをいただいた際にも公にしておくこと。
どうしてもひとりで書いていると、事実誤認や解釈の違いが出てしまったり、あるいは純粋に面白くない、読むに足らんといったコメントをいただくこともあります。
前者に関しては、読者の方に間違った情報を伝えてしまったことになるので、過去一度だけですがご指摘いただいた情報をもとに再調査の上、改めて再投稿という結果に至ったことがあります。
その際はどういう誤りがあり、結果どのように修正したのかは明示して対応しました。
一方で後者のような批判的な感想シェアするようなことはしてきませんでした。
単純に感想ツイートの総量がまだまだ少ないということもありますが、たとえば100人が感想をツイートしていたとして、好評と不評がちょうど半々だったとします。
ここで50の高評価ツイートのうち、30個をリツイート、低評価ツイートはひとつもリツイートしなければ、結果的に記事への期待値コントロールになってしまうと思うのですよね。
いずれ僕もそんな風にたくさんの方から反応してもらえるようになった場合には、心に留めておこうと感じた体験でした。